「私が小さかった頃、戦後で、家はとても貧乏だったから服は何度も修復やリメイクして、靴下も穴があいたら何度も繕ったものだ・・・」
母はよくそう言って笑って続けた。
「今はお金持ちでなくても、靴下は安くて、穴があいたらすぐ買い替えることができるのは、社会が豊かになった証拠だ」
祖父母や父母は私たちに貧乏をさせまいと、ささやかなだけど豊かな生活をさせてくれた。私は若い頃はそのありがたみを全く気にせずに育った。だからお金のことや社会の仕組みについて、30代になるまで意識しなかった。モノについても消耗品、欲しいものはなんでもすぐに買える時代だった。だからいらないものはなんでも捨てた。
今、私は穴のあいた靴下を繕って履いている。破れたジーンズも当て布をして補修している。
わずかながらにコツコツ貯金、投資をして、一人で生きていくために、節約している。側から見ればいわゆる貧乏なのかもしれない。
靴下も三足1000円で買えるということは、時給1000円で1〜2時間働けば買える。今は100均でも買える時代なのだし、消耗品をわざわざ繕うこともないのかもしれないけれど。デニムジーンズだって3000円で新しいのを買えるわけで。
私は比較的モノに執着がなく、断捨離をどんどんする方。重くて肩が痛くなるダッフルコート なんてさっさと断捨離したい!って思う反面、こんな風に消耗品の安い靴下を大切にしたいという両極端な自分が、時々わからなくなるwww
でも、私は靴下を繕うたびに、母の言葉を思い出しながら、幸せな気持ちになる。一針一針を刺すたびに、心が豊かになる。貧乏だからという理由じゃなくなってきている。繕えばまだ着ることができる。靴下のように毎日履いてぼろぼろになる物を大切にすることができるということは、自分を大切にしているような気がするのだ。つまり、ぼろぼろの靴下が自分。それを繕ったり当て布をつけて傷んだところを補強することが、まるで自分の心を直して支えなおす工程。ささやかだけどとても温かくしてくれるような気持ちになるのだ。